無題


先日打ち合わせで三重県に外出していた帰り、夕方の景色がなんだか懐かしい雰囲気だと思って写真を撮影。
 
僕は小学校1年生の終わりまで、青森県弘前市に住んでいました。その時は山が見えて自然もたくさんある場所でした。でも2年生になったときから愛知県に引っ越して来て、そこからはずっと名古屋なのでほとんど今の場所で過ごしていることになります。この写真は小さいころ住んでいた名古屋の雰囲気によく似ています。
 
住んでいた周りには建設会社の資材置き場があって、その脇は車もほとんど通らなくて寂しい道でした。僕たちはそこでスケボーの練習をしたり、ドブ川のトンネルを遡り、汚い川でザリガニを採ったりして遊んでいました。
僕たちの通っていた学校は結構荒れていて、毎日喧嘩ばかりだったし、今では考えられないけど不良の先輩に絡まれるのが普通でした。
 
自然豊かな青森という場所から、名古屋へ引っ越し、両方のことを考えながら生きてきた気がします。実は、最近の地方創生で地方移住の話が出てくるたびに、何か引っかかるものを感じていたのですが、最近になって自分の気持ちが自分自身で理解ができるようになりました。
 
大量消費についての批判とか、今までの消費や経済や野菜とかを否定する色々な記事をみて、反発したくなる自分がいることに気がつきました。
今でもそうだと思いますが、北海道や青森の田舎町では、冬季に入ると仕事がなくなるために出稼ぎに出ることがよくありました。田舎にいるからってみんな一次産業だけに関わっている訳ではありませんし、田舎の生活を都会が支えていたことは、実際に出稼ぎをしている方達が一番よく知っていると思います。
 
そう考えると一次産業や地域のコミュニティについて考えていることだけが「いいことをしている」ような錯覚に陥るのも極端すぎるし、田舎と都会を切り離して考えることなんて現実不可能なんだと思います。
 
実際に昔からずっと都会と田舎は一本の糸で紐づいていて、そのお互いを橋渡ししているのが、テクノロジーだったり、整備された交通手段だったりします。僕たちは車や飛行機を乗って、スマートフォンでコミュニケーションをしている以上、過去を自分以外の誰かのせいにすることはできない、といつも考えています。
 
限界集落はできるだけ住んでいる人たちが困らないようなコミュニティが残って欲しいと願うし、地方がもっと住みやすい場所になることも賛成だし、でも過去が全部悪いという前提で話しをすることはせずに、前向きに現状を受け止めて進んでいくバランス感覚が必要だと思います。
 

運良く、子供の頃にその両方を見れて、今も都会の良さも田舎の良さを考えながら生活できるバランス感覚を持っている。贅沢をする楽しみも、清貧の素晴らしさも、全部いいことだと感じています。
 
ちょっと田舎に引っ込んで、好きなことだけやって生きてみたい!と一瞬思ったこともあったけど、やっぱり自分たちだけ良ければいいという考えにはなれなくて、今こうして生活している間にも、車や家電を作ったり、家を作ったり、道路を補装したり、電線を引いたり、野菜を育てたり、商品を販売したり、料理をしたり、色々な方達のおかげで生活できていることに感謝して、僕自身が何ができるかを、きちんと考えて生活していきたいと感じています。
 
多分そっちの方が向いているし、そういうことをやりたいのだと思います。

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